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ブログを引越しいたしました2016.01.22 Friday
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今まで読んでいただきありがとうございました。
「パリッシュな1日」は下記へ引っ越しいたしましたので、
引き続きご訪問くださいませ。
「パリッシュな1日」
http://ameblo.jp/polish-kazu
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寝袋と朝焼け Vol 42016.01.21 Thursday
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私には3人の子供がいる。
今ではみな成人してそれなりに成長してくれたけど
創刊当時は16歳、10歳、8歳の子供たちだった。
当時、夕方になるとスタッフのみんなには内緒で、買い物をして夕食を作りに自宅へ戻っていた。
子供たちに夕食を食べさせて、会社にもどり朝方まで仕事をする。
夜明け近くになり、あわてて自宅に戻り朝食を作って学校へ送り出す。
そんな毎日だった。
でもそんな生活をしているのは私だけでなく、
6人のスタッフ全員が寝袋持込で、会社がすべての生活、
そんな日々でした。
朝焼けを見ながらコーヒーを飲む。
当たり前のようにやっていたあの頃を複雑な気持ちで思い出す。
話は少しずれるが、今年のお正月に末の息子と二人で東京の増上寺に初詣に出かけた。
帰り道、ウナギを食べようと二人で鰻屋に入った。
その時、初めて彼から聞いた。
「おかんの携帯番号は絶対に忘れないよ。子供の時に、おかんに会いたくて、何度も何度も携帯に電話したからさ」と。
そういえば、8歳の彼は前橋の自宅から高崎の私の会社まで
一人で自転車で来たこともあった。。
そんな思いを一度ならず何度もさせていたのだ。
あの当時、私の頭の中は、絶対失敗できない。
この事業をなんとしても成功させねばならないということしかなかったのだろう。
必死でやっていれば何とかなる。
子供たちだって何のためにこんなに働いているのかわかってくれるはずだと。
でも今思うと、なぜそんなに一人で背負いこんで頑張っていたのだろうかと、ふと思う。
周りに迷惑かけたくないと、一人で必死に仕事に向かい合っていたのだけれど、
それはある意味自分の勝手な思い込み。
子供たちのことを本当に冷静に考えれば、頑張るところが他にもあったはず。
周りの人の力や助けを借りることや、子供達共もっと向かい合って、
理解を乞う努力をすべきだったのではないかと。
事業を成り立たせる中で、こういう子供達の犠牲もたくさんあったということだ。
もちろん、息子はそれを非難しているわけではない。
昔話としてサラっと話してくれたのだけれど、私は心の中にとてもとても痛いものを感じた。
今だからそんなことを思うけれど、
当時は目の前の締切に追われ、売上を追いかけながら町の中を走り回っる毎日であった。
続く
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パリッシュの船出は5人の女たち Vol 32016.01.20 Wednesday
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小さな事務所をオープンすると同時に社員募集の求人広告を出した。
「マイタウンをもっと元気に面白く!一緒にタウン誌を作りましょう」
という求人広告を見て応募してきた女性たちがたくさんいた。
たぶん出版社という名前に惹かれての応募だったのでしょうが、
仕事を始めて数日すると、「私にはできません」と泣きながらやめていく。
取材して楽しいコピー作ってルンルン♪なんて想像していたのだろうか?
女の子たちは、毎日毎日広告営業に走らされる現実を知り、辞表を置いてパリッシュを後にする。
それも致し方ない話だ。
当時の町のお店は、タウン誌に広告を出して集客するなどという文化がないわけで、
どこへ行ったって断られるのだから。
そんな中でも3か月くらいすると、
本気になり始めて一緒にやろうと腰を据えてくれるスタッフが現れはじめた。
以前勤めていた会社の後輩のOちゃん、
今でいうフリーターをやっていたTちゃん、
3人の子持ちのMちゃん、
年齢不詳で年上のKさん、
ライター専門のIさん。
そうだ、一時だけワケありの中年男性Xさんもいたっけ。
中でもそれから10年以上私と苦楽を共にしたOちゃんとTちゃんはその後のパリッシュを支えてくれる幹部スタッフになってくれた。
後になってTちゃんが語ってくれたが
「私は最初事務所に入った瞬間、騙されたのかもと思いましたよ。
だってデスク6台と電話3台しかない事務所だったんですから。他に何にもないんですよ。
でも社長があんまり熱く語るんだもの。
パリッシュという情報誌を高崎に出すのよ!全世帯にポスティングするの!高崎にパリツシュという文化を創るのよ!」と。
「圧倒されて、頷くしかなかった。それになんか夢みたいなものをちょびっと感じたのかも・・・」と
社員を引き留め、納得させるものが何もなかった私は、自分のパリッシュへの夢を語る以外になかったのだ。
それでもなんとか5名のスタッフと走り始めた。
もちろん私とOちゃんを除く全員が、雑誌作りや営業など未経験な者ばかり。
まず情報誌とはなんたるものか。
広告営業とはこうやるの。
パリッシュの掲載価格は●●円、パリツシュの面白さは●●●よ。
全て一からの教育だ。
その後3か月後に創刊号を出した。
奇跡的(これが2回目の奇跡になるのか・・・)にも目標金額の1500万円を稼ぎ出した。
創刊号を手にしたKさんはへたりこみパリッシュを握りしめて泣いていた。
でもそれで終わりではなく、次号の営業がすでに始まっている。
ここから毎月毎月終わりのない月刊誌事業が続くのだ。
その年の暮れ、みんなで伊香保温泉に社員旅行に行った。
皆に申し訳なく思う、忘れられないことがある。
創刊号まであんなに頑張ってくれたスタッフなのに、温泉費用を全員自腹を切らせてしまった。
今では考えられないことだけど、みんなはそれでも快く出してくれた。
会社からは出してあげられなかったのだ。そんな余裕はなかった。
こんなに何もしらないスタッフをとりあえず5人、無理やり手漕ぎボートに乗せて大海原に船出した。
なんと恐ろしいことよ。 続く
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女は時として恐ろしい決断をする Vol 22016.01.19 Tuesday
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私はごく普通の専業主婦時代を何年か送っていた。
資格も特技もない3人の子供たちの母親であった。
そんな私でも、環境の変化に対応する能力は持ち合わせていたようだ。
バブル崩壊とともに、前夫(とあるが、現夫がいるわけではない。関係ないか)
の会社の経営不振とがんの発病。家庭は一機に厳しい状況に追い込まれていったのだ。
マイホームも建てて5年しか経ってない。
収入もどんどん減るばかり。借金は減らない。
専業主婦がやるパートくらいでは支えられる状況ではなかった。
そんな中で、何をやるべきか考えていた時に、
頭の上から降りてきた仕事が「タウン誌」であった。
パートで少しばかりかじった経験を活かして、
主婦という視点が生きる生活情報誌なら、私にできそうだ。
時代は地方経済・地方マーケットに向けられ始めた頃でした。
情報も地域の情報が必要なのだと、角川書店や地域新聞社が積極的に地方進出し始めていました。
恐るべしリクルート進出はその数年後になるのだが・・・。
地方の情報を一番欲しがっているのは、地元の主婦。
要するに私が欲しい情報イコール女性のニーズなのだ。
きっと支持される!私にしかできないビジネスがあった!
これは面白いことになるぞ! あははは(爆) ほんとに単純。
そうは言っても、情報誌を1回出すだけで一千万円以上のお金がかかる。
広告収入を稼ぐしかないわけだが、情報誌を作らなければ、お金はもらえない。
資金をなんとか調達しなければならないのだ。
担保も保証人もいない中で、
銀行が融資してくれるはずがない。
常識のある大人であれば、まずそんな賭け事のような事業はしないことだろう。
でも、無知な女は時として恐ろしいことを平気で決断できるのだ。
私は何とかしようとした。
当時、常識が頭をもたげてくると、観音山に登った。観音山から夜の高崎の町を眺める。
この灯りの数だけパリッシュを届けよう!
この灯りの数だけ「パリツシュ大好き!」と言ってくれる人たちを作ろう!
そう思うと少しばかり頭をもたげた常識は熱い思いと勇気が消し去ってくれた。
女は少しばかりの幸福と失うものを持つと、決して無謀な決断はしない。
それが賢い女だ。しかし賢い女は経営者には向かない。
女性経営者は半歩下がれば地獄谷に落ちるという危機感の中で初めて動物的な臭覚を持つものだ。
私はこのことを、ずっと後になって身に染みてわかるのである。
平凡で幸せな主婦になれなかったのは、
こういう本能を持ち合わせていたことだと、のちに納得するのだ。 続く Vol 3 へ
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奇跡のスタート vol 12016.01.18 Monday
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私がパリッシュ出版(株)を設立したのは1997年、今から約20年前のことになる。
とてもとても暑い8月の初旬だった。
私は自宅から、愛用のワープロ(その当時はパソコンではない)と
10個ほどの紙袋を車に積んで高崎問屋町の事務所(と言ってもわずか10坪足らずの雑居ビル)
に向かった。
会社設立の引越と言うにはあまりにも荷物が少なすぎたし賑やかさも華やかさもない。
当時小学生だった息子二人(のちにその一人が現社長)が、
楽しそうに手伝ってくれた。
ま、その程度の引っ越しだった。
パリッシュ出版はこんな感じで始まった。
それでも、ここにこぎつけるまでが大変だった。
何しろお金はない、人脈なし、経験なし。無い無い3拍子が揃った私が、
奇跡的にも起業できたのだ。
そしてその奇跡がこの後20年近くも続いていくのだから、
人生はよくわからないものだ。
理屈や道理だけではない、奇跡を起こさせる何かが動かなければ、奇跡は起きない。
私の頭の上から神が下りてくる感じってわかるだろうか?
こんなことを言うとどこぞの信者かと誤解されそうだが、そういうことではない。
これまでの人生の中で何度か私はこの感じを味わっている。
突き動かされるってことなんですけどね。
私は自分が突き動かされて起きる奇跡が何だったのかを知りたくなった。
振り返ると、反省や懺悔ばかりの人生であるけれど、
あえて振り返り検証することが、還暦の自分が明日生きていくための杖先になるのかもと考えたわけだ。
そして、もう少し、おこがましいことを言えば、
私の失敗の数々が、これから起業する人たちへのささやかな忘備録になるかもしれないとも思っている。
さて、少しづつじっくり思い出してみようと思う。 続く
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還暦組の新年会2016.01.16 Saturday
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昨夜は某会のシニア組達の新年会。
久しぶりに集まって、親戚の新年会のような雰囲気。
この仲間たちといると、なんともいえない心地よさを
感じる
あの時はこんなことがあったとか
おまえ、あの時こんなこと言ったとか
延々・・昔話が続く・・・
ふと、私は思ったのですよ
ずっと昔話でよいのかよ
あのころは、経営について喧々諤々議論してたじゃないか
どうも還暦前後になると
昔を振り返りがちになる
あと何年生きられるかわからないけれど、
自分たちの最後の生きざま 生き先を議論しなけりゃいけないよ
そんなこと考えるのは私だけなんだろうか・・・
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繁盛店にはワケがある2016.01.14 Thursday
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最近、高崎の飲食店はなかなか繁盛しているお店が多い。
夜の人出も、数年前から比べると多くなってる印象がある。
今日は、取材で飲食店オーナーさんの話を聞いたが、
高崎は出店しやすい町だという。
しかしすべてのお店がうまくいっているわけではない。
長く続くお店にはそれなりのワケがあるのだと
改めて感じた。
料理の旨い不味いは当然ながら人気の理由の一つだが、
一番大事なことは、オーナーの人間力という。
人を相手にする職業だけあって、
人とのつながりを大事に
人の心地よさを知りぬいた接客
そして人の来店動機に合わせた店つくり
確かにそうだな・・・
それは飲食店に限ったことではないな。
常に今に満足しない姿勢であることが、
自分にとって必要な情報をかぎ分けられるのだと改めて思う。
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高崎電気館「東京キッド」2016.01.11 Monday
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連休最終日
昼間の中央アーケード通りを歩くのは久しぶり
休日だというのにだれも歩いていない
かっては高崎の繁華街だったらしいが・・・
全国どこでも似たような光景だけど
ここを通り抜けて
高崎電気館に向かう
昭和から続いている高崎で一番古い映画館だ。
こんなレトロな建物を残している高崎は
たいしたものだと改めて思う。
今日はここで
1950年の映画「東京キッド」を観た
美空ひばり主演の作品。
昔の映画はいい。
私たちが忘れてきているものを思い出させてくれる
映画の中の東京の風景と共に、
その時代を生きた父や母の姿が浮かんでくる
人はみな死んでいく。
でも一人ひとりが生きたことが、
今の私たちをつないでくれている
ノスタルジックな時間に身をおきながら
さまざまな思いがよぎってきた。
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